発達障害者の徒然日記

発達障害を抱える20代の男の徒然日記です。

日本と海外の道徳意識のズレと障害者支援のあり方

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日本と海外の道徳意識のズレは障害者支援のあり方に顕著に現れる。日本の道徳は24時間テレビに象徴されるように、なぜその人が困っているのかの背景を理解せず、「困っている人をとりあえずみんなで助けましょう」という考え方に基づいている。海外の道徳は「困っている人がいたら、その人の困っている原因を分析して、その人に本当に必要な支援を行う」という考え方に基づいている。この違いは、障害者支援の目的や手段に大きな影響を与える。

具体例を挙げてみよう。日本では、障害者支援は主に慈善活動やボランティア活動として行われることが多い。障害者は社会から孤立していると見なされ、同情や哀れみの対象となる。障害者支援は障害者の生活を少しでも楽にするために行われるが、障害者の自立や社会参加を促すことはあまり考慮されない。障害者支援は障害者に対する恩恵として与えられるが、障害者に対する権利として認められることは少ない。一方、海外では、障害者支援は主に人権活動や政策活動として行われることが多い。障害者は社会の一員と見なされ、尊敬や尊重の対象となる。障害者支援は障害者の能力を最大限に発揮させるために行われるが、障害者のニーズや希望を尊重することも重視される。障害者支援は障害者に対する権利として要求されるが、障害者に対する恩恵として感謝されることもある。

 

この違いを比喩で表現すると、日本の道徳は障害者を「壊れたもの」と見なし、修理するか捨てるかの選択肢しかないと考える。海外の道徳は障害者を「違うもの」と見なし、適応するか変えるかの選択肢を与えると考える。日本の道徳は障害者に対して「同情する」ことを重視するが、海外の道徳は障害者に対して「共感する」ことを重視する。

しかし、この主張に対して疑問を持つ人もいるだろう。日本の道徳は本当に障害者に対して無理解で無関心なのか。海外の道徳は本当に障害者に対して理解的で関心深いのか。日本の道徳は障害者の自立や社会参加を全く考えていないのか。海外の道徳は障害者の生活や幸福を全く考えていないのか。これらの疑問に対して、私は次のように反論する。 日本の道徳は障害者に対して無理解で無関心というのは、統計的な事実に基づいている。日本では、障害者の就労率や教育水準、所得水準などが低く、障害者差別や虐待などの問題が多く発生している。日本では、障害者の権利を保障する法律や制度が不十分であり、障害者の意見や要望が政策決定に反映されることが少ない。日本では、障害者の存在や活動がメディアや社会に十分に紹介されることが少なく、障害者の多様性や個性が認識されることが少ない。これらの事実は、日本の道徳が障害者に対して無理解で無関心であることを示している。 海外の道徳は障害者に対して理解的で関心深いというのは、国際的な評価に基づいている。海外では、障害者の就労率や教育水準、所得水準などが高く、障害者差別や虐待などの問題が少なく発生している。海外では、障害者の権利を保障する法律や制度が充実しており、障害者の意見や要望が政策決定に積極的に反映される。海外では、障害者の存在や活動がメディアや社会に広く紹介され、障害者の多様性や個性が尊重される。これらの評価は、海外の道徳が障害者に対して理解的で関心深いことを示している。

日本の道徳は障害者の自立や社会参加を全く考えていないというのは、実際の状況に基づいている。日本では、障害者は社会から隔離された施設や病院に入れられることが多く、社会との交流や貢献の機会が奪われる。日本では、障害者は社会の一員として扱われず、特別な配慮や支援を受ける対象として扱われる。日本では、障害者は自分の意思や選択を尊重されず、他人や社会の期待や規範に従わされる。これらの状況は、日本の道徳が障害者の自立や社会参加を全く考えていないことを示している。

以上のように、日本と海外の道徳意識のズレは障害者支援のあり方に顕著に現れる。日本の道徳は障害者に対して無理解で無関心であり、障害者支援を表面的で感傷的なものとして行っている。海外の道徳は障害者に対して理解的で関心深く、障害者支援を実質的で合理的なものとして行っている。この違いは、障害者の人権や尊厳、幸福や自己実現に大きく影響すると考えられる。